2009年12月18日金曜日

日本辺境論:内田 樹

この本は本当に面白かった!読んで夢中になっていて電車を乗り過ごしたぐらいだ.内田氏は武道家らしく,話題の進め方に何とも言えない絶妙な間合いがあり,また自分も含めて俯瞰するような冷静さというかトボケ味がある.論だけでなく,その語り口の絶妙さに感激した.

私は16歳で2年間の海外生活から日本に帰国し,それから日本に対してはある種の違和感を常に感じながら,それを原動力として今も研究に取り組んでいる.「ある種の違和感」とは,「何を目指しているのかわからない(長期的視野を欠く)」国家や地方の姿であり,変わり身の早い人々の責任感の欠如であり,根本的には日本人が「何が正しいか」を考える姿勢を強く持たないことである.そういう自分も歴史について無学であるため,そのような日本人の振舞いの根本的理由をはかりかねていたのだが,本著は大胆にその辺りに対する論を展開しており,腑に落ちるところが多かった.そしてまた,私自身の「日本人的素質」が痛いほど読んでいて分かってしまうという点でも勉強になった.

以下備忘録

「どういうスケールで対象を見るか」という問いは,本来あらゆる知的活動の始点に立てられなければならないはずのものであります.

司馬遼太郎:自分の「可視範囲」を宣言していた.

問題は,先賢が肺腑から搾り出すようにして語った言葉を私たちが十分に内面化することなく,伝統として受け継ぐこともなく,ほとんど忘れ去ってしまって今日に至っているということです.

日本文化論が積層してそのクオリティがしだいに高まってゆくということが起きない.

日本文化というのはどこかに原型や祖形があるわけではなく,「日本文化とは何か?」というエンドレスの問いの形でしか存在しません.・・・・変化の仕方が変化しないというところに意味がある・・・「執拗低音」(丸山眞男).

「きょろきょろして新しいものを外なる世界に求める」態度こそまさしく日本人のふるまいの基本パターンです.

日本社会の基本原理・基本精神は,「理性から出発し,互いに独立した平等の個人」のそれではなく,「全体の中に和を以って存在し,・・・一体性を保つところの大和」であり(川島武宣)

主義主張,利害の異なる他者と遭遇したときの日本人はとりあえず「渾然たる一如一体」のアモルファスな,どろどろしたアマルガムを作ろうとします.

私たちは変化する.しかし変化の仕方は変化しない.・・・・集団としての自己同一性を保持するためにはそういう手だてしかなかったからです.
私たちの国は理念に基づいて作られたものではないからです.私たちには立ち返るべき初期設定がないのです.

他国との比較を通じてしか自国のめざすべき国家像を描けない.

自分より強大なものに対して屈託なく親密かつ無防備になってみようとする傾向は軍国主義者であることと少しも背馳しない.

私たちの時代でも,官僚や政治家や知識人たちの行為はその都度「絶対的価値体」との近接度によって制約されています.「何が正しいのか」を論理的に判断することよりも,「誰と親しくすればいいのか」を見極めることに専ら知的資源が供給されているということです.

ここではないどこか,外部のどこかに,世界の中心たる「絶対的価値体」がある.

「我々日本人の行き方として,自分の意見は意見,議論は議論といたししまして,国策がいやしくも決定せられました以上,われわれはその国策に従って努力するというのが我々に課された従来の習慣であり,また尊重せらるる行き方であります」(小磯国昭)

日本国の本体であるところの「国體」というのは他国に従属しても政体の根本理念が変わっても変わらないものとして観念されていたわけです.

「どこかからか起こって来たもの」が戦争の主因であるというスキームだけは変わることがありません.

「辺境」は「中華」の対概念であります.

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